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認識の再定義2 [哲学]

 認識の再定義2として
今回はちょっとした命題を用意して考えてみました。
 * 水は電気を通すのに氷は電気を通さないのは何故か。
 * さかなの楽しみとはあるのか。
 * 再度問う、光は波なのか粒子なのか。
最近ますます迷路に嵌り込んでしまったので、自分が納得行くまで考えているのですが、中々どうしてです。最初の命題については、ネットで調べても、これぞという答えは有りませんでしたので、自分なりに考え直してみたのですが、これが正解に近づけば光が波か粒子かもある程度解けるようなものだと思います。2番目の魚の楽しみとは、古代聖人の書物に有る二人の問答の一節に、川の中で悠々と泳ぐ鯉の姿を見て、「あれが魚の楽しみというものだ」と言ったのに対し相手が、「あなたは魚ではない、どうして魚の楽しみが分かるのか」と切り返した話なのですが、あの言い回しがいまいち理解できなかったので、再度考えてみたものです。つまり、一個人の思い、その人にだけ感じる真実は、果たして別の個人、他人にどのくらい理解できるのかです。魚ではない人間は、魚の楽しみなんかは理解できるものでないとしても、さかなにも人間と同じような楽しみが有るようにも思えます。この話はとりあえず置いといて、水の性態に戻ると、水はある基準0°で性態が変わり氷になることは、既知として知られています。液体の時は電気を通すけれども個体になると電気を通さないと言うのは実は結構難しい問題なのだと思います。電気は電子の流れとして理解があるとして、では、凍ったとき電子はどのような状態になっているのでしょうか?流れないということからして、凍っているとも言えるかもしれませんが、そもそも電子は凍るものでしょうか。一方電子は光の一種とも言われています。と言うことは、光は凍ることもあると言えないこともあるでしょうが、光が凍るとは漫画の世界だけなんだろうと思います。まあこういう議論は通常であれば人は無駄な問答として止めてしまうのでしょうけれど、ある程度答えが出るまでは止めません。では、水が凍ったとき電子はどのような状態になったのかと推測すると、1・振動しなくなった。2・消えた。3・同様に個体(結晶)になった。・・・が考えられますが、ここで別の角度から追求していくと、水は凍ると体積が増えることも知られています。これは、分子の結合の仕方が変わって今までぐちゃっと潰れていたものが、規則正しく配列を組んだために、膨張したとします。だとすると、この結晶構造には、今までにない隙間ができたことを意味しているではありませんか。隙間を埋めるものとして、何もない空間を想像しますが、この何もないと考えられる空間こそが電子が存在し得る空間としたらどうでしょうか。電子が空間になった?にわかには想像し得ないですが、ここで、「君は電子ではない、どうして電子の状態がわかるのか?」として、古事の話をオーバーライドしてみました。確かに私は電子ではないのですが、人間の体を作っている物質というか食べ物には必ず含まれているものだと思います。なので、考えている最中にも、電子のフロー制御を無意識にやっており、日々コントロールしているものだと。ただし、人間凍ってしまったら、死んでしまいますけど。考えて行っただけでも、今までの既知が如何に場当たり的なものか、見過ごされてきたものかと思わざるを得ません。既知でない現象が出る度に想定外と言う言葉を繰り返すんでしょうか。
話を戻しますが、この推測は今までの既知とした物理学の法則と矛盾しません。真空中を伝わる光は媒体としてこの凍った電子空間を伝わってくるとして考え、実際の真空の温度はないので計りようがないのですが、地球はるか上空は、極低温だと知られていますから、矛盾しません。中には宇宙船に乗って真空中の温度を計れば良いとするかもしれませんが、その温度とは、太陽光が温めたその温度計の今の温度です。真空の温度ではありません。つまり、ない物は計れないのです。さあ、答えが出そうです。電子は、空間であり光が波として振る舞う時の媒体であり、ある一定の条件下で空間からある物質と言われるものに変化できるものだと。それが、真実だとするとある種のベースの定義に成り得ますから、すべてをそれに照らして関連付け思考再起動です。実際そうやって一つ一つ照らしていくと、面白いことも出てくるのですが、最後の光は波か粒子かの問いは、そもそも波とは何かと言う実際のイメージを凝らさないと理解できません。では、ちょっとした頭の体操で、よく見かけるイメージし易い海の波です。この場合媒体は海水と考えても良いのですが、実際は海水に接している空気も裏表で同様に動いているわけですから、こう考えました。見るような波には媒体が二つ以上あると。として、海水だけで見ると、これは縦波と横波の90°変換の組み合わせです。原子的に見れば、粒子同士の衝突から生まれ、それから生まれる分子群の伸縮を是正するために上下に振幅して、それを全体的に90°変換すれば、横波です。この説明だと粒子しか出てこないのですが、全体として波としています。では波の元は粒子ではないか!となりますが、もう一つの媒体である空気、大気には何も触れていないので、この次に!

*この文の終わりに:私の疑問は、子供の幼稚な疑問のようなものからはじまっています。つまり、学校の勉強とか研究論文とは無縁です。

認識の再定義1 [哲学]

 最近考えていることに、人間の頭脳の認識について定義し直さないと、説明が上手くいかなくなるという問題が自身の中に出てきて、自分なりに再定義してみました。物理学では解決済みの問題として、光の二重性、波と粒子が有ります。物理学を志すものでなければ二重性は考える必要はなく、返って煩わしいものだと思います。「どっちでもいいじゃん、今日も朝日が昇るご飯が旨い!」それで十分。なのですが、それでは済まなくなる事象がまま出てきます。他人に物事を伝える時、果たして正確に受け取ってもらっているのか、どうなのかです。これ、確認しようとすると、途端にパラドックスに陥ります。どういうことかというと、物事を判断するのには、大まかに分けると波の立場で理解して人と、粒子の立場で理解している人と二通りに分かれるのだと思います。本人が意識していようといまいとに関わらず。だとすると、認識がその時点でズレが生じ、これが大きくなると分裂という事態になります。自然がそれを許容しているとすれば、人は素直に受け入れるのが妥当だと思うのですが、相反するものを同時に受け入れることはできません。これも自然は禁じています。つまり、物質を有するもの生命体を有する限りこれは永遠の課題であり、そのいたちごっこを覚悟の上で人生を歩まねばならないという結論が導きられます。話はこれで終わりになるのですが、そこで人間が思考する上で、最低限の基本原理は何かと探し求めたところ、この二つの定理が浮かびました。


1、人が波として存在する時思考はしない。


2、人が粒子として存在する時思考する。


と言うものです。


これで、あまたの現象を説明できるかどうかですが、これと同等な格言にデカルトの方法序説に出てくる「我思う上に我あり」、パスカルのパンセ「人間はひとくきの葦に過ぎない。自然の中で最も弱いものである。だが、それは考える葦である。」がありますが、その当時光についてはあまり知られていなかったので、私が追加して定義し直したものです。しかし、デカルトの考えでは、’思わない時考えない時’、については触れていません。とどのつまり、これでは二つの現象が生じてしまいます。思わない時は、存在しない。存在する?なので、追加しました。思わない時でも存在は可能であると。私自身は創案者ですからこれで説明は足りると思っているのですが、これ、そうでない人が読んだら「なんのこっちゃい!」となると思うので、かいつまんで説明すると、波として存在するとは光の速さ又はそれ同等のスピードで移動している場合です。粒子として存在するとは三次元の座標がはっきりしていて、時間が追加できる場合です。時間がなければ死又は思考停止状態、脳死を意味しています。これでも不十分だと思いますが、追い追い適前展開していきますので、まずはここ迄としました。1の場合は信徒でなくともキリスト教をある程度理解しないと慣れないと思いますが、現代風にアレンジしても理解できると思います。一つ例を挙げると、移動時とは思考の実行時でもあるので、この時、思考の停止が起こり非連続となり粒子側の人から見ると見ることができません。存在しないのと同じことです。しかし、これでは現実の現象を上手く説明できなくなるのでプログラムの世界で使われている表現を借りれば、デリゲートが自然と働くことになっていて、イエスはそれをよく理解していましたので、それを特定の人、彼が選んだ弟子たちにお願いしたということです。弟子たちは彼が移動したことを、人々に通知する義務が発生します。これで、比連続はある程度回避したことになります。これに対し2の場合から始まる人たちは移動する必要がない人達です。日本の天皇制や王制は粒子説だけで充分足ります。が、これも時間の経過と共に色々問題が生じてくるのは、歴史が証明しています。最大のピンチは婚儀の時です。それさえ乗り切ればある一定期間は安定です。では、1の場合の婚儀はどうかというと、移動が前提ですので時空さえ見誤まらなければ、自ら相手と出会えます。


さて、ここで矛盾が生じます。国を挙げた婚儀の場合、どちらか一方しか取れません。ロミオとジュリエットにも似ていますが、全然違うものです。いずれか一方を滅ぼさない限り全肯定全否定はできません。必ず二分するのです。


じゃあこの話は愚問でこれで終わりで片付けていいのかというと、残念ながら無視できません。日本を度外視しても今世界を震撼させている問題の根底にはこの矛盾が隠れているのです。第二次世界大戦、太平洋戦争もある種この根本の矛盾が隠れていた戦争だったと思います。視野の狭い見方かもしれませんが、どちらが正しいとか正しくないとかではなく、この矛盾を理解していなかった時代に起こった悲劇と言わざるを得ません。


ざっくばらんに説明しましたが、今回はここ迄としました。


意志2 [哲学]

前の意志としての内容は、足りないところが多過ぎたので追加です。
では何を持って意志とするかで表現が違って来ます。
化学的に考えれば、脳の情報伝達細胞による電気反応に入るから、脳科学に分類されるかも知れません。これには人間の記憶能力、学習能力、思考能力、言語能力、洞察能力等々絡んできますから、そこ迄は踏み込みません。
物理的にはどうでしょうか。例えば地球がある意志を持って地震や津波を発生させたと言う表現が出来るでしょうか。粗方の人はナンセンスと思うでしょうが、もし意志と言う言葉が意味を持つ、或は存在する意義があるとしたらこういう使い方が正解なのだと思います。

怪しくなって来たので、ここでちょっと聖書の言葉の助けを借ります。
マタイ5:3に"Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven."というのがあります。山上の垂訓の一説ですが、これは編纂されていて正確ではないのでしょう。私はこう覚えていました"Spiritual Poverty, you have the heaven."日本語では「心の貧しい者は幸いなり、天国はあなたの物なり。」
このスピリットなのですが、日本では心意気とかで使われているのではないでしょうか。ここはイエスも弟子達に、ヒステリックになったのではないかと思います。「何故お前達には分からないのか」
英語では心の単語にmindもあり、日本語の意志には、willやvolitionが使われています。なので御当家キリスト教国と言われる人々もspiritの捉え方が様々のようです。第一、創造主を信じたり進化論を信じたり二分しています。私から言わせればどちらも当てはまるのですが、どちらか一方と言う訳には行きません。これは光の性質にもあたります。方や波であり方や粒子という相容れない性質を認めているではないですか。

なのでここは少々飛躍して言わせてもらえば、spiritを私の言う意志に置き換えると巧く説明できます。例えば、嘘をつこうと言う意志、盗もうと言う意志、姦淫しようとする意志、人を殺そうと言う意志。つまり本来有り得ない行為に対する使われ方です。なので地球がある意志を持って地震や津波を発生させたと言っても本来有り得ないのですから、かなり苦しいですが間違いではないでしょう。
まあそんな使い方は後にも先にも無いでしょうけれども。

ですからキリスト教の教義である、やっては行けない意志(spirit)が貧しいほど天国に近づけると解釈した方が親しみ易くなります。心の貧しい人と訳すと馬鹿かアホかの話にも捉えられるので誤解が生じます。しかし、この教えを守るのは、簡単そうで簡単ではありません。人生には色々な誘惑があり、まるで意志がない者は、生きられないような仕組みがいっぱいあります。それを避けながら生きるのは至難の業です。
仮にそれを乗り越えられた人がいるとすれば、天国の門は開かれます。その人から見れば、誰が良くて誰が悪いのか判断できます。

私は早くそういう世の中が訪れないかと期待しているのですが、まだまだのようです。政治家を見て下さい。彼らは意志の固まりです。なので他者の力を利用できません。結局何も出来ないのです。せいぜい足の引っ張り合いとでも言いましょうか、そのくらいです。

私もなるべく意志を持たないようにはしていますが。他人と接すると地震や津波のように爆発する事たびたびです。

美しい花が何の報酬を求めずとも花を咲かせるがごとき、植物が実を結ぶがごとき、魚が海で生長するがごとき、人間が何の報酬を求めずとも世界が自然に人類の花を咲かせる事が出来れば、いうことなしです。

意志とは [哲学]

意志(意思)とは何かと調べているのですが、なかなか良いものがありません。ネットでは、さして理解して投稿しているものが無いようです。なので例に依って自分なりにアレンジして述べたいと思います。
グローバルな視点では、人間だけが持っているものと考えがちですが、私はそうは考えていません。確かに言語ととして作り上げたのは人間です。しかし、それは言語を作り出し概念として他人に伝えるための方法であり、元々それは生き物と呼ばれる全てに存在しいたものです。
じゃあ何で人間だけがそんな厄介な言語に置き換えたのかという問題が浮上して来ます。
実にこれは問題が問題を呼ぶ概念なのです。
もう一つの視点に人間は自由意志があるのかと言う問題があります。私の結論から言うと有りません。有名な言葉に、「欲する事は欲せても、欲する事を欲する事は出来ない」と言うのがあります。私なりの言い方をすれば、体に水分が足りなければ水分が欲しいと思う事が出来ますが、その思う行為を欲しいと思う事は出来ないと、受け取っています。つまり、何事も自分の意志で決められるものなど無いと言う事です。

しかし、世に出ると個人的責任が強く求められますし、何かその人だから意志を持って行動しているんだと思いがちですが、そんな物など無いと言わざるを得ません。
政治家以下公務員は庶民が居なければ成り立たない商売ですし、医師は病人が居なければ成り立ちません。全てはそうです。
ですが、ここでさっきの問題が出て来ます。上に立つ物が人間には自由意志があり、勝手な行動をとれる生き物だと決めつければ、たったこれだけで人が変わり世が乱れます。
又金権力であたかもその人が自分の意志で行ったかのような行動をさせる事も出来ます。

原発の立地地を見れば分かります。細々とやっている貧しい地域にお金で釣られて、本来あるべき反対の気持ちを表す事も出来ず、安全神話を押し付けられ造られたのが今の現状です。
そして結果は福島の場合、避難民を生んだ事になります。

今の政治の悪いところは、この意志の理解が無いとも言えます。
世の中が正常な人間ばかりであれば、医師や弁護士、犯罪者を捕らえる警察官、刑事はたまた多くの政治家は要らなくなります。つまり金権力の価値観が大幅に下がります。
が、そんな人間を排出する社会を作ったのであれば、政治家も何も干上がってしまうとなれば、人間悪い事を考える知恵(これが意志と言えるかも知れません)が働きます。学歴社会、貧富ある社会、犯罪ある社会、、、。

前にObjective-Cで触れましたが、これはこれである種完璧な言語です。コンピュータの中の世界をCocoaという形で作っています。その中のクラスクラスタを束ねているのが、Objectです。
今の政治には、このObjectが無いのです。なければ、クラスクラスタはてんでバラバラな行動を取りコンパイラーに弾かれます。

話が逸れたので、今度は生物学的に考えてみます。食物連鎖にある植物プランクトンに意志があるでしょうか。私は無いと思います。ではそれを餌とする動物プランクトンに意志があるでしょうか。これも同様であり、動物プランクトンは植物プランクトンに呼ばれたオブジェクトと考えています。以下これらの連鎖、イワシ、クジラ、イルカ、海鳥、マグロは餌となるオブジェクトから呼ばれるオブジェクトであり、意志があって行動している訳ではないはずです。
これは主に水中生物であり、では地上ではどうでしょうか。
順をたどって行けば、最後に呼ばれるオブジェクトが人間と言う訳で、やはり意志はなさそうです。
で今の総理大臣です。総理大臣は閣僚が呼ぶオブジェクトの最後に位置していなければなりません。
しかし何時しか成り済ましの総理になってしまいました。呼んでもいないのに、象徴的に取り据えた総理です。つまりオブジェクトではないのです。何も無かったらまだ持ち超えられますが、やはりここは非常時です。これは被災者に取ってみれば由々しき事態です。

私は意志があってこれを投稿しているのではないと思っています。止むにやまれず投稿しているのです。

哲学とは [哲学]

哲学とは、というページが有ります。私は今まで哲学という言葉は使いませんでした。でも、高校生の時は、授業とは無関係に隠れて大概の哲学書は読破していました。しかし、哲学はあくまで方法論であって、向きになって読み進めると袋小路に陥ります。哲学だけで範囲を狭めて終われば堂々巡りの議論に成ってしまうのです。私のブログは、宇宙や原子に始まり、私の哲学に則って自然現象を記述して来ました。これは、今まで哲学者がそこまでたどり着けなかったところの物です。哲学それ自体は、土台や基礎そのもので、思考の中では、見せられない物です。人間の体で言えば、骨みたいな物で、肉を裂いて骨を見せる人は居ないでしょう。ですから、哲学だけの学問は、意味など有りません。真理を追究するのに拠り所とは成りますが、それだけで結論は出ないのです。私のブログをある程度読んでみればどのような哲学を持って論じているか、その哲学が見えると思います。今初めて哲学を持ち出しましたが、哲学は何かを記述する方法であって、見せてはいけない物です。と言うと今見せているじゃないか、って言われそうですけれども、だから袋小路なのです。このタイミングなら、分かってもらえるかなと思ったのですが、皆さん、どうでしょうか。

哲学は英語でphilosophy=愛+智なのだそうですが、何か誤解が生まれそうなので、知ることへの喜びと私は解釈しました。この喜びは味わった者でしか知り得ません。直感と人は時々言いますが、その直感でさえ長年積み上げて来た哲学が有ったからではないでしょうか。そういった知ることへの感動は、アインシュタインも言う通り、そうすべての人に与えられる物でもない様です。努力も大事でしょうが、駄目だと思ったら別の得意分野から自分なりに見つめ直すのも一つの方法だと思います。過去の偉人達が残してくれた知識は、その時代その時代で輝いていましたが、所詮死んだ知識です。塗り替えられないのであれば、死んだ知識を持つことに成ります。私はある種知識を塗り替え、自分の言葉で書いています。生きている証拠です。まあこれが天命なのかもしれません、無駄に死にたく有りませんから。

哲学は難しくは有りません。がここを間違えると、途端に難しくなります。哲学用語にはまったり、歴史の変遷にはまったりと誤解から誤解が生まれたりと様々です。多分多くの人が未だ嵌りっ放しなのではないでしょうか。

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